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イタチと加奈とボク
いつものように、ボクは冷蔵庫から持ち出したひと掴みのイリコを駐車場の隅に置き、腰くらいの高さに積まれたブロック塀の上に腰掛けてボンヤリとタバコを吸っていた。
ひと月ほど前から、パソコンに向き合うことに飽きれば気分転換にここに来るようになっていた。
車や人通りの少ない、家から歩いて3分のこの駐車場は「脳細胞の休息」に最適の場所だった。
2年ほど地元を離れていた間に、蛙が鳴いていた田圃には洒落た白い外壁の家が立ち並び、おばあさんが置物のように店の奥に座っていたいたタバコ屋は眩しいくらい明るい照明のコンビニに変わっていた。
それでもそこは静かな場所だった。夜になると住人みんなが息を潜め、何かに怯えているようにすら思えるほど静かだった。
やがて、野良猫が駐車場の入口に姿を見せ、ビニール袋の上に置かれたイリコの様子を遠目に伺う。用心深くなかなかイリコには近づかない。
(それでいい。警戒心が強くないと野良猫なんてできやしない)
吸い終えたタバコをブロック塀でモミ消そうとした時、野良猫がピクリと何かに反応して大きく目を見開いた。
猫の視線の先は駐車場の入口。
そこには、黄色い帽子を被り、黄色いバッグを肩からぶら下げた幼稚園帰りの女の子が立っていた。どこかで見たような気もするし初めて見る子のような気もする。
女の子は野良猫を見て、僕を見た。
「こんにちは」と両手を太ももに置いて丁寧に彼女はお辞儀をする。
「こんにちは」とボクも言う。
「あのね、私、ずっと考えていたの」
女の子は(勇気を振り絞って聞くのよ)という感じで話を切り出した。
「時々イタチがあの隅っこで何か食べてるのよね。何だろうなってずっと考えてたの」
「イタチ?」
「あ、私とママが付けた名前。あの仔猫のことよ」
「ふーん」
ボクと女の子に同時に見られて驚いた野良猫はブロック塀を飛び越えて視界から消えた。
やれやれ、気の毒な野良猫。食事の邪魔をされたな。
「何でイタチって言うの?」 女の子にボクは尋ねた。
「イタチに似てるんだって。私は見たことないわ」
(似てるのかな?) ボクは考えてみたけれど、野良猫の名前なんてどうでもいいことだし、そもそもボクはイタチの専門家ってわけでもないから大した問題じゃない。OK! 彼は「イタチ」だ。
「お兄ちゃんがイタチを飼ってるの?」
「飼ってないよ。あれはただの野良猫なんじゃないのかな。ボクは名前も知らない」
「でも何で餌をあげてるの?」
「餌じゃなくてオヤツだな。いつか懐いてボクの手からイリコを食べるようになれば少しは面白いかもと思って」
「面白いのかな? でもイタチって人からいじめられてるから近づこうとすると逃げちゃうよね。私は近くに行けたことないの」
彼女は「よいしょ」と掛け声を発しながら苦労してブロック塀によじ登り、ボクの横に腰かけた。
そこで、彼女の名前が「加奈」だということを知り、幼稚園の年長組で「食事の後片付け係」をやっていて結構多忙な毎日を送っていることを知った。
その日以来、顔を合わせるたびに加奈と話すようになった。
加奈は一人の時もあれば、同じ幼稚園に通う友人、母親と一緒の時もあった。
挨拶をかわす程度のこともあるし、1時間以上もブロック塀に腰掛けて世間話をすることもあった。
加奈は実家の近くのアパートに住み、「お漬物をパックする仕事」をやっている母親と二人で暮らしていた。加奈が4歳の頃、3日続けて両親は大喧嘩。4日目から父親は家に帰らなくなったらしい。
「簡単に言うとリコンしたの。性格のフイッチってやつね。お母さんは誰にも言っちゃダメよって言ってたけど」と加奈は周囲に誰もいないのに小声でボクに耳打ちした。
そんな話を聞いていたため、(ボクに懐くのは父親がいないから寂しいのかも)と考えていた。
いつものように駐車場の隅にイタチのオヤツを置いた。いつもと違うのは、イリコではなく昼食で残した焼き鮭の残りだってことだ。イリコに比べたらかなりのご馳走だ。
時間があったので、ボクはブロック塀に腰掛けてイタチがやってくるのを待った。
「ヤッホー!」
ニコニコ笑いながら加奈が走り寄ってきた。昼過ぎだから幼稚園が終わるには早い時間だ。
「やぁ」とボクは言った。
「イタチは来てないの?」
「うん。オヤツにはまだ早い時間だからね」
加奈はブロック塀に上るのが上手になり、近頃では苦労せずボクの横に座るようになった。
「今日の幼稚園はどうだった?」
ボクは尋ねた。
いつもならすぐにいろんな答えが返ってくるのに今日は黙ったままの加奈。
そして返ってきたのは「私、引っ越すの」という言葉だった。
「え?」 驚いてボクは言った。
「ママが結婚するんだって。私も子供だからついていかないとね」その口調から母親の再婚に気乗りしていないのがわかった。
「そっか。パパが出来るんだ。よかったじゃないか。いろんなところに連れて行ってくれるよ。遊園地とかマクドナルドとかプードルのいるペットショップとか」 加奈を励ますように明るく言う。
「よくないよ」
「なんで? 行きたがってたじゃない」
「私、好きじゃないもん、あの人」
「優しくないの?」
「ううん。優しいよ。悪い人じゃないみたい。でも私は好きじゃない」
ボクは加奈にどう言えばよいのかわからず、気休めの言葉しか浮かばなかった。
「少しずつでいいから好きになっていけばいいよ。慌てることはない」
「そうね…。少しずつね。うん、頑張ってみる」
加奈は小さく笑った。
「私、お兄ちゃんがパパになってくれればいいなぁって思ってたんだよ」
「ボクがパパに? それは困るな」
「お母さんにそう言ったら、お母さんも困るって言ってた」
二人は笑った。
「よく考えたら私も困るんだよね」
「何で加奈ちゃんが困るの?」
「だってお兄ちゃんがパパになったら結婚できないでしょ!」
顔を赤らめて怒ってみせる加奈。
「それもそうだね。ボクも困る」と笑いながら言う。
加奈はため息をひとつついた。
「私ね、誰かに「新しいパパのことは好き?」って聞かれたら「大好き」って言うようにママから言われてるの」
「ママは加奈ちゃんにも新しいパパを好きになってもらいたいからそう言ったんだよ」
加奈はボクの顔をのぞきこんだ。
「お兄ちゃんが子供の頃、どうでもいい人のことを好きって言えた?」
ボクは答えられなかった。そんなウソは大人しかつけないことを知っていた。その答えを6歳の子供に言えるはずはない。
(ボクもずるい大人なんだよ、加奈ちゃん)と心の中で呟いた。
「私、大きくなったらお兄ちゃんと結婚する!」加奈は言った。
「うん」ボクは答えた。
「お兄ちゃん大好きよ!」
「うん」
「子供だから嘘はつかなくてもいいんだよ!」
「うん」
加奈は笑った。
ボクも笑った。
いつの間にかイタチがやってきて珍しいご馳走を美味しそうに食べていた。
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