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おまじない
「おまじないするね」
ベッドの上でカナはそう言うと、小さな紙切れに書かれた文字を三回繰り返した。
「ヒデは私と恋をする、ヒデは私と恋をする、ヒデは私と恋をする」
その後にボクの知らない言葉(呪文?)を付け加え、紙切れにそっと息を吹きかけた。
そして、ポケットから取り出したライターで紙切れの端に火をつけ、灰皿の上に置いた。 ボクとカナの視線の先で、紙切れはあっという間に炎を上げて黒い灰になる。
「さて、これで私とヒデは恋をすることになるのよ」
断言するカナの言葉に、ボクは「へぇ…」と間抜けに答える。
「何だか気の抜けた返事ね。このおまじないってすごく効果があるのよ。信じてないの?」
「信じていないわけじゃないけど、本当に効果があるの?」 ボクは苦笑いを浮かべながら訊ねる。
「やっぱり信用してないのね。効果あるに決まってるでしょ! 私の方がヒデよりも長く生きてるの。ヒデの知らないことを山ほど知ってるわ」
自信あり気なカナ。
(やれやれ)という思いを顔に出さず、ボクは窓の外を見た。
冬の終わり。あるいは春の始まり。
冬のため息と春の歌声を感じさせる陽射しが病院の中庭を明るく照らしていた。
ボクは青少年期に多い潰瘍性大腸炎、カナは心臓病で入院していた。
病院の売店でカナが声をかけてきてボクたちは友達になった。
「こっちの方が美味しいよ」とボクが適当に選ぼうとしたスナック菓子の隣にあるものを背中越しに勧めてくれたのだ。
「ありがとう」 ボクはそう言って、まだ食べたことのない発売されたばかりのお菓子を買った。
カナは満足そうに頷いて、耳元で「少し頂戴ね」と囁いた。
カナは暇な時にはよくボクの病室にやってきて話をした。
難しい話じゃない。天気の話や学校のこと、好きな芸能人、病院生活のこと…。
病院の中庭や屋上、テレビのある休憩室でも話をした。
誰でもそうだと思う。病院生活は退屈だ。少なくともボクとカナにとっての刺激の種はどこにもなかった。
きっと同年代の人間との会話が何らかの刺激になっていたのだろうと思う。
人間は気づかないうちに何かで精神的なバランスを取るものだ。
ボクとカナにとって(大人から見れば)くだらない世間話がそのバランスを取る行為だった。
カナはボクより二つ年上の高校一年生だった。ボクの年齢を聞くと納得したように頷いた。
「やっぱり、中二なんだ。予想通りね」
「どういうこと?」
「まず見た目。それから態度ね」
「そうかな」
「まだ雰囲気が子供よね。で、女性に対する態度が硬い」
「カナも子供じゃん」 ボクは言った。
「私はヒデより大人よ」
「たった二つしか違わないだろう。そんなに違わないよ」
「若い時の二歳って大きいのよ」
「それはわかるけど」
「ヒデはキスもしたことないでしょ?」
「……」
ボクの反応を楽しむようにカナはニヤニヤしながら話した。
ボクは三週間入院した。
その間、ほぼ毎日のようにカナと顔をあわせていろいろな話をした。
入学したばかりの学校を半年だけ通って休学していること、もう三ヶ月も入院していること、文字を読むときは眼鏡が必要なこと、胸が大きくならないことを不満に思っていること…。
ボクは退院後にも週に数度はカナの見舞いに行った。
入院生活の退屈さがわかるし、カナに対して(恋愛感情ではない)親密な感情を持っていた。
カナはほとんどの場合、ボクを笑顔で迎えてくれた。
ただ、数日ボクが病院に行けないと拗ねたような表情・態度でいることがあった。
(カナの方が子供じゃん)
ボクは思ったけれど口には出さない。逆にやり込められるのがわかっているからだ。
ある日、病室の前を通りかかった看護婦が病室を覗き込み、「まるで姉弟みたいね」とからかいの言葉をかけてきた。
「たまには『恋人みたいね』と言ってみたら?」とカナは笑いながら言う。
「そう言われたいのなら考えるわよ」 ニヤリと笑う看護婦。
「とんでもない!」ボクは慌てて否定した。
「ヒデはガキだからねぇ。まだまだ恋愛は無理だわ」
「そうね。まだ子供ね」と看護婦も笑いながら頷く。
「なんで認めるんですか!」 内心少し傷ついたボクは憤慨してみせた。
夕方。すでに窓の外は薄暗くなっていた。
カナの母親は買物に出かけていて病室にはカナと二人きりだった。
それまで何の話しをしていたのかよく覚えていない。プロ野球の話? 聖子の新曲の話?
それまでの話から突然話題が変わった。
「私ね、バージンなの」
なぜカナがそういう話を急に始めたのか理解できなかった。
もちろん年相応に女性の体に興味はあったけれど、カナとはそんな話をしたことが一度もなかった。
「うん」ボクは答えた。突然のカナの言葉に他に答えようがなかった。
「ヒデは経験あるの?」
「ないよ」
「したい?」
「うん。興味はあるかな」
「やってみる?」
「え?」
「私と初体験してみるかって聞いてるの」
「う~~ん」
ボクはちょっと考えた。
「カナを嫌いじゃないよ。ただ心の準備が…」
「何言ってるの、女の子みたいね」カナは笑った。
そしてボクの方に体を寄せて唇を重ねた。
カナの鼓動が唇を通して感じられるほど長いキスだった。
抱きしめようとしたけれど、腕の力が入らずにボクはカナに抱かれるよう形でキスをした。
「ねぇ、私が元気になったらセックスしてくれる?」
カナは伏し目がちに耳元で囁いた。
ボクは「うん」と掠れた声で答えた。
「私、キスしたの初めてよ」
カナは心内膜症欠損症の手術を控えていた。
心内膜症欠損症は、左心室と右心室の間に穴が開いていて血液が混ざってしまう病気だ。
大きな孔でなければ成長するに従い自然に塞がる。また、子供の頃に見つかっていれば手術すれば治ることがほとんどだった。
だが、カナはもう大人だった。そして手術なしでは塞がらない大きさの孔だった。
子供の頃からスタミナ不足を感じていたカナ。高校の体力測定で、これまでに感じたことのないほどの息切れと不整脈に襲われてグラウンドに倒れた。
そして、病院で精密検査。その時に心内膜症欠損症だということがわかった。
「元から体力がないもんだと思ってたの。それがこういう病気だなんてね」とカナは肩をすくめてみせた。
偶然病室前を通りがかった担当医が話に加わり、「手術的には難しいものではないな。100%近い手術の成功率だよ」と笑いながら言った。
その言葉を聞いてボクは安心した。
200本のクジの中にハズレが1本。普通に考えればハズレるわけがない。
医者もボクもそう考えた。もちろんカナもそう考えていただろう。
ハズレるわけがない…と。
「私、おまじないしたの」
「何を?」
「もっと生きていたい…って」
ボクはちょっと口ごもり、「馬鹿なおまじまいだな。長生きするに決まってんじゃん。先生も難しい手術じゃないって言ってただろう」と言った。
「うん。わかってる。手術が片付いたら、ちゃんと高校を卒業して、仕事をして、結婚して、子供を三人産んで、幸せな人生を送るの」
「ちょっと贅沢過ぎない?」
「贅沢じゃない理想なんてないわ」
「そうだね」
ボクたちは笑った。
カナが死んだ後、ボクは夢を見た。
夜中、小さな紙切れを握り締め、「もっと生きたい、もっと生きたい、もっと生きたい」とベッドに跪いて懸命に願うカナの姿を。
言葉には出さなかったけど、不安だったのだろう。
「ねぇ、ヒデ。」
「ん? なに?」
「私ね。ヒデが思ってるように大人じゃないの」
「うん」
カナは自分の左胸を手の平で押さえていた。
悲しげに何かを訴えるような目だった。
「私、勘がすごくいいの」
「そうなんだ。宝くじで1等当てたとか?」
「うふふふ。それはないけどね。ただ…うまく言えないけど」
「どうした?」
「…やっぱり子供のヒデには言えないわ」カナは寂しげな笑みを浮かべた。
手術前の不安を言葉にしようとしたのか、あるいは死を予感していたのか…今となってはわからない。
その会話の後、ボクたちは二度目のキスをした。
ボクとカナの最後のキスだった。
ボクは時々考える。
二人は恋に落ちるべきだったのか…。
セックスすべきだったのか…。
もっとおしゃべりすべきだったのか…。
ねぇ、カナ。
言い訳してもいい?
ボクはカナの言うように子供だったんだよ。
もう少し時間があれば、ボクは大人の男になってカナをお姫様のように扱うことができただろう。
残念だけどボクは本当に子供だった。
でも、それは大人になっても同じことだな。
いつも後悔している。後悔しながら生きている。
生きるってそういうものなのかもしれない。
もう子供じゃないボクはそう思う。
カナにはわからないだろうな。
何かを失いながら大人になるんだってことが。
みんな心の底で「大人になんてなるんじゃなかった」と思ってるはずだよ。
もうおまじないは効かないし、おまじないも使えない。
それが大人。
とても悲しいのが大人なんだよ。
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